2010年3月 1日
宮中某重大事件
大正7年(1918年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌大正8年(1919年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。山縣は西園寺公望や原敬首相と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、大正10年(1921年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。
事件の責任を取って、中村雄次郎宮内大臣は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌大正11年(1922年)2月に山縣はひっそり世を去った。
婚礼の儀の延期と関東大震災
大正12年(1923年)の関東大震災と、地震に於ける東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政であった)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌大正13年(1924年)1月に延期した。
この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生していた(加藤友三郎首相逝去後は、宮中席次筆頭の内田康哉外相が内閣総理大臣臨時代理を務めていた)ため、東京の宮城(皇居)に留まったことにある。
後年、昭和56年(1981年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
宮中某重大事件について調べてみました。
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